Quantcast
Channel: ROKKO RUGBYFOOTBALL CLUB OFFICIALBLOG
Viewing all articles
Browse latest Browse all 781

★STAYHOME 六甲全国大会激闘史★

$
0
0

~六甲クラブ全国大会激闘史①~

 緊急事態宣言も39の県で解除され、自粛緩和の動きが出てきておりますが、まだまだ予断を許さない状況が続きます。六甲クラブは引き続き全体練習を自粛、選手たちは感染防止のマナーを遵守しつつ、個人トレーニングを行っております。

 ここではアーカイブ企画として、過去の全国クラブ大会での激闘を、当時のエピソードを踏まえながら、数回にわたって振り返っていきたいと思います。

 ●クラブ大会創世記(1993~98年)

 「クラブチームにも全国大会を!」 

 1993年11月、熊谷で初めて行われた全国クラブ大会。4チームが参加し、記念すべき第1回王者はイワサキクラブ(茨城、後のピッグノーズ)が輝きました。

 六甲クラブは第2回(94年・北九州/本城)に初出場。決勝に進出しますがイワサキクラブに14-25で敗退しました。この悔しさを忘れずに次の第3回(岡山/美作)で念願の初優勝、次の第4回(福島)にも優勝し連覇を達成します。

 続く第5回(熊本/八代)では初戦でノフォムリ、ナモア(元三洋電機)擁する三洋クラブに12-31で完敗。翌年の第6回(岡山/美作)でも準決勝で曼荼羅クラブに7-25で敗れました。

 この頃の全国大会は12月31日~翌年の1月4日の年またぎ!の5日間に3試合を行うというハードスケジュール。それでも全国のライバルチームとの熱い激闘にクラブの歴史が刻まれていきました。

 ●第7回、初の秩父宮ラグビー場の決勝で奪冠!

 99年度から決勝は秩父宮ラグビー場で行われることとなり、全国のクラブラガーマンたちに「大きな目標」が生まれました。

 熊谷で行われた1回戦は茨城のピッグノーズに64-25で快勝。翌日の準決勝は北海道バーバリアンズ。自陣からでも狙ってくる外国人SOのPGに苦しめられ試合は一進一退。終盤あわやトライの場面がありましたが、HO榎村(現六甲GM)の窮地を救うタックルもあり、最後はSO伊藤康がトライをあげ、27-20で振り切りました。

 2000年1月23日。聖地・秩父宮で六甲クラブは躍動します。前年度王者の曼荼羅クラブを相手に前半から自慢のFWが爆発。後半にはWTB「鉄人・吉野俊郎(早大→サントリー)」のトライも生まれるなど57-33で3回目の優勝を果たしました。

 当時のメンバーは社会人チームを引退した者や早慶同など強豪大学出身者が多く、今でいう「クセが強い」メンバーがたくさんいましたが、主将の寺井徹(摂津→近大)を中心に榎村・渡辺の副将が見事にまとめていました。また練習場所やリーグ戦でもまだ土のグラウンドが多かったですが、それでも多くのメンバーが集まり、紅白戦では一触即発のガチガチ雰囲気になることも。社会人経験者からは試合への取り組み方、各選手の出身高校、大学からにじみ出る「バックボーン」が面白く化学反応して強いチーム力が生まれました。

 決勝戦でマン・オブ・ザ・マッチに輝いた永遠の鉄人・吉野俊郎。昨冬に行われたクラブ50周年記念式典で、当時を振り返っています。

 「今までずっと続けてきた選手生活の中で一番楽しかったのが六甲クラブでした。(マン・オブ・ザ・マッチをもらった)決勝戦がラグビー人生の中で一番うれしかったなあ。これ本当なんですよ。当時は練習場所もポートアイランドの空き地の時もあったけど、週末、仲間に会えて、大好きなラグビーするのが本当に楽しかった」。

 主将を務めた寺井は、その後、自分の夢を諦めずに当時勤務していた会社を退社。関西社会人リーグの強豪・ヤマハに入りトップリーグに挑戦します。リーグ元年の03年9月14日、花園でのワールド戦でトップリーガーとして試合出場を果たしました。 image

 ※昨冬、神戸大学深江グラウンドに集まった六甲クラブOBメンバー。


Viewing all articles
Browse latest Browse all 781

Trending Articles